

No.39 「厚遇」


男は食糧の買い出しの帰り、道端でぼろぼろになっていた野良たぬきと目が合った。
憐れなたぬきは顔をあげてしゃがみ込んだままで、ジタバタする元気すら残されていないようだった。
男はこのたぬきをどんな目に遭わせてやろうか考えて、実行に移すことに決めた。
弱々しく嫌がる野良たぬきを小脇に抱えて無理矢理連れ帰り、風呂場にぶち込んで熱湯をぶっかけた後は泡まみれにしてやった。
ゴム手袋をつけて、抵抗する力もない野良たぬきの頭を強引に押さえつけ、耳を塞いでゴシゴシとこする度に、
「ダヌッ…ダヌッ…！いやっし…やべでじ…！」
と騒ぐので手早く黙らせるためにスピードをあげてモチモチボディを無茶苦茶こすってやった。
茶色かった身体や服がみるみる変色し風呂場の床を濁った熱湯が流れていく。
しっぽどころか全身が濡れて呆然としているたぬきを連れ出して全身くまなく熱風を勢いよく吹きつける。
「あうぅーし…！あうぅし…！」
水滴を飛ばすべくジタバタしようとするので強引に押さえつけ、隅々までフワフワにしてやった。
使い古した布で拭きあげてやると、そのまま身体を包んで食卓まで連行する。
脱がされた汚い服は白い機械のぽっかり空いた穴に放り込まれ、野良たぬきからは見えなくなってしまった。
「や…やだし…何されるし…！」


「……し…」
きょろきょろする野良たぬきを台所に立ち入らせないため幼児用のイスに縛りつける。
たぬきをこういう目に遭わせる時に便利なのでリサイクルショップで買ってきたものだ。
このイスの上で今までもたくさんのたぬきをあんな目やこんな目に遭わせてきた。
コンロに火をつけ、たぬきへの次なる仕打ちのための手順を進めていく。
落ち着かない様子で座らされた野良たぬきは何かに気がついたようだが、もう遅い。
腕ごと胴体を縛り付けているので、憐れなたぬきは首を動かすことしかできなかった。
湯気をたてるホカホカのうどんを野良たぬきの前に並べ、敢えて目の前に放置する。
野良たぬきはへの字口の端から涎を垂らし、お腹のたぬきはｷｭｳｷｭｳ鳴いて早く食べたいし…と訴えている。
野良たぬきはブンブンと首を横に振って、それでも目線をうどんの容器から離せずにいた。


しばらく放置された野良たぬきは涙を拭うこともできない。
わざわざぬるくしてクタクタになったうどんを箸ですくって、イヤイヤと首を振るのも構わず強引に食べさせてやった。
たぬきは泣きながらちょうどいい温度でやわらかいうどんをするすると飲み込んだ。
「おい…しいし…おいしい、しぃ…」


「…だし…だし…」
生意気にも出し汁を要求してきたのでレンゲを持ってきてお望み通り口に押しつけてやった。
「…だし…？」
困惑した野良たぬきは諦めてすすり、レンゲの中の出し汁を飲み干した。


「うううし…」
うどんと出し汁でパンパンになったお腹のたぬきに追い討ちをかけるかの如くデザートにプリンも出してやり、スプーンですくって食べさせてやる。
もはや抵抗する気力は無くしたのか、一口食べるとションボリ顔をほんのり緩め、すぐに飲み込むと次を運び入れてもらうのを歓迎するように口を開く。
食べたことのない甘味に頬をモチモチしようとしても出来ない野良たぬきはプリンと同じようにプルプル震えている他なかった。


その後は余韻に浸らせる間もないままにイスの拘束を取り外して再び小脇に抱えて洗面所に連れ出し、
「なんだし…？やだし…！」
戸惑う野良たぬきに甘くないクリームをつけた棒を口に突っ込み、前後に動かす。
甘い味をかき消すような清涼感の強いそれは、野良たぬきには刺激が強かったらしく、
「おえっし…おえぇし…！」
反射的にえづく野良たぬきの口に突っ込んだ棒をあちこち無理矢理動かした後に、コップに入れた水を含ませて吐き出させる。
「げふっし…！げふっし…！」
散々むせた野良たぬきはぐったりとしてしまった。


その後は粗末な布を敷いた物置代わりの部屋にスペースを作り、タオルを巻いたたぬきを転がす。
使っていない毛布をかぶせて間抜けな姿を隠してやる事にする。
たぬきが強烈な睡魔に襲われて意識を失ったことを見届けて、豆電球を残して部屋の明かりを落としてやった。
夢の中でぐらいニッコリするがいい。


ーーー3日後。
男はたぬきを野に返した。
「なかまの所にかえしてし…」
と泣きながら寝ていたので望み通りにしてやったのだった。

服は綺麗になり、肌はモチモチを取り戻し、傷は包帯で保護されて今は立派な健康体だ。
たぬきは大体3日もすれば元気になるので、初めから元の場所に返してやるのは決定事項だった。
男は寝入るたぬきの傍らにクッキーを一袋置いてやり、涙をそっと拭って去っていった。
あばよたぬき。せいぜい達者で暮らすんだな。

男は表現が不器用なだけで、たぬきを憎んでなどいなかった。
ただし、ペット不可のマンションなので長く飼う事はできない。
手当と看護が終われば、元いた場所に返してやる事しかできなかった。


解放された野良たぬきは目を覚ますと、公園のベンチに寝かされていた。
眼前では、暗くなり始めた空に星がちかちかと光っている。
野良たぬきは解放されたことにホッと胸を撫で下ろすが、ある事に気がついてしまった。
傍らに置かれているクッキーなどは、目にも暮れなかった。


「あ…あ…やだし…やだしぃぃ…」
慌てて泥をこすりつけるように、ごろごろと地面を転がるが、しっかり洗濯されてつけられたフローラルな香りは簡単に消えるものではなかった。
次に手厚く看護された証である包帯を外そうと試みるが、たぬきの手では結び目を解くことはできない。
せめてもの抵抗で泥を塗りたくり、包帯を何とか汚れで隠そうとするのが、たぬきの精一杯だった。
焦る解放たぬきの前に、縄張りの異変を察知した野良仲間達が姿を表す。
「ひっ…し…！」
帰還した仲間を取り囲む表情にあたたかみはなく、険しかった。


「帰ってきたかし…」
「誤魔化したってだめだし…バレバレだし…」
「お前もいい思いしてきたんだろし…」
「ずるいし…」
「どうしてたぬきはいい思いできないし…」


野良たぬき達は、仲間を迎えにきたわけではない。
手には棒や石を携え、剣呑な雰囲気を醸し出していた。

解放たぬきは噂で聞いて、実際に目にしていた。
野良生活の途中で、人間に拾われてお風呂に入れてもらい、おいしい食事を与えられ、
きっちり３日後には元の場所に戻される。

これまでは美味しかったごはんが不味い何かに変貌し、
匂いを上書きされて仲間にモチモチしてもらえなくなる。
多くを求めなければ、決して幸せでなくとも不幸すぎるほどでは無い野良生活が一変させられてしまう。
野良たぬき達にとって、これほど恐ろしいことはなかった。


この界隈では1番最初にそんな目に遭わされた野良たぬきは、自分が人間からの施しを受けたことを自慢げに言いふらしていた。
妬まれ、嫌われた野良たぬきは“すぐにあの人間が迎えにくるんだし…”と強がっていたが
さらに３日経とうと何も起きない事に絶望し、庇護を失ったと判断した他ぬき達に木の棒や石でリンチされて死んだ。


他に思い出されるのは仲の良かった5人姉妹のうち、1番小さくて弱かったので1人だけ拐われて自分のように手厚い待遇を受けた後にたぬき玉に戻されたチビたぬき。
母親は帰還した我が子が元気になった事を当初は喜んでいたが、
清潔で満ち足りた生活を味わってしまったチビは野良生活との格差に気がついてしまった。
柔軟剤の香りはむしろ野良生活の中では浮いていて、嗅ぎ慣れない匂いを嫌う姉妹からは仲間外れにされてたぬき玉に組み込んでもらえなくなり、
更には母親の用意した食事を受け付けなくなって癇癪を起こしてジタバタするに終始し、自らも周りを寄せ付けなくなっていた。
次の日、ゴミのようにぼろぼろにされて地面に放り出されていた野良チビたぬきを見つけて抱き上げてやると、
“……ｼ…ﾔﾀﾞ、ｼ…”
過剰なストレスが脳への刺激となり、今際の際に喋れるようになったチビが発したのは。
“ﾐﾝﾅ…ｼﾈ…”
価値観を壊した人間へか、自分を捨てた親姉妹へか。あるいはその両方に向けてか。
前途有望だったはずのチビが何とか絞り出した言葉があまりに陰惨で、
野良たぬきは思わず手を離してしまった。
“…ｼ……”
頭から落下したチビは、もはや何を恨めばいいのかの判別もつかず
周りの命全てを呪いながら、力なく鳴いて、すぐに動かなくなった。


この間見た、同じようにされた野良たぬきの末路は。
“モチモチしてほしいし…たぬきを仲間はずれにしないでし…”
群れから追い出されたショックから道路に飛び出して、車にその命を絶たれる事を選んだ。

しかし轢かれ方が悪く、手足を片方ずつ引き潰された状態で車道の端に転がされて生き残ってしまい、しばらく苦痛に呻いていたら。
飛来したカラスの群れに、よってたかって啄まれ、食べ放題のお肉と化してしまった。
思わぬご馳走に集まったカラス達が満腹になり、ガァガァと去っていった後は、赤黒く染まった服の破片しか残っていなかった。


あの人間に拐われて帰ってきた野良たぬきは、誰もが不幸になっていた事を思い出して、解放たぬきはジタバタしたいのを必死に堪えていた。
自分を包囲する仲間達に、これまで男にそうしていたように懇願する。
「ゆ、ゆ、ゆるしてし…！」
「ゆるさないし…」
「おまえはもう仲間じゃないし…」
「いい思い出を上書きしてやるし…」
「服はもらうし…」
「しっぽもらうし…」
だがやはり、あの男と同じように解放たぬきの願いは通じなかった。
解放たぬきは逃げ出した。


全速力で走っても大したことの無い速度で、本来ならばいずれ追いつかれて袋叩きにされたはずだが、追いかける者は誰もいない。


野良たぬき達は、見逃してやったのではなかった。
1匹がベンチに置かれたある物に気がついて、全ての目線がそちらに注がれたからだ。
注目が集まったのは、解放たぬきへの餞別に置かれたクッキーだった。
最初の野良たぬきは仲間の前で見せびらかすように食べた為により妬みを増加させ、
チビの場合は親が発見する前に自分だけで全て食べ尽くしてしまい、
自殺たぬきは“これあげるからモチモチしてほしいし…”と交渉材料に使うも取り上げられるだけで後は無視されるという、余計に状況を悪くしていた代物。


野良生活では残飯やクズ野菜には出会えても新品のお菓子などお目にかかれはしない。
道端に落ちている破れた空の袋を手に取って“ちがったし…”とションボリしながら袋の内面についたカケラを舐めるのが関の山だった。

憧れのお菓子が、ちょこんと置かれている。
誰の手もつけられていない、新品のままで。
野良たぬき達の心は色めきたった。
「これ…！おかしだし…！」
「たぬきがいただくし…」
「これたぬきのだし…さわるな…」
「まだ誰のものでもないし…」
「いちばんつよいたぬきのものだし…」
このたぬき集団は戻ってきた仲間を逆恨みしていじめるほどに頭がたぬきだったので、分け合うという発想を持ち得なかった。
争いの対象が変わり、ぎゃあぎゃあと騒ぐ声と何かを殴る音が一帯を支配する。
そのまま続けば通報され、この場のたぬきは全滅するだろう。
だが、低次元の争いは長くは続かなかった。
たぬきの身体能力にそこまでの差異はなく、本気で戦っても勝利者のいない痛み分けで終わり、五体満足に立ち上がる者はいなかった。
皆、仰向けだったりうつ伏せだったり横たわったりでしばらく動けそうにない。

「い゛…いだいじ…」
「たぬきのおめめ…片方ないし…やだし…」
「なんか言ってるし…？おみみが痛くて聞こえないし…」
「ゔゔゔ…たぬきのクッキーどこだし…」
「ひどいじ…しっぽはやりすぎだし…」
争いの果てに、あるたぬきは片耳を潰され、またあるたぬきは片目を抉り出されている。
運悪く耳の穴に木の棒が刺さり隙間から血を流すたぬきもいた。
石で鼻先を潰され、クンクンしたくても出来なくなったたぬきと、しっぽを潰されて立てないたぬきは嘆き悲しみ、その場から動けないままだ。

争いの対象は、何処からかするっとやって来た野良猫に咥えられ、持ち去られた事も知る由もなく、今後の野良生活に大いに支障をきたすであろう傷を負った野良たぬき達はその場でうめき続けた。



「ひぃ、し…ひぃぃ、し…！」
自分が野良たぬき達の意識から外された事など知らない解放たぬきは決して振り返らず、一心不乱に走り続けた。

自分も、他ぬきやチビ達みたいな行く末しか待っていないのだろうかと思うと怖くてたまらず、息を切らしながら走り続けた。

結果、体力を使い果たして転倒した解放たぬきの眼前に広がるのは、見知らぬ建物ばかりの光景だった。
道ゆく人間達はたぬきに興味を持たず通り過ぎていく。
前しか見ていなかったので、どう戻ればいいのかもわからない。
見事なぼっちたぬきにされてしまい、解放たぬきはいっそうションボリした。

泣きながら、落ちていた木の実を見つけて拾う。
結構拾える場所が多い割に、好きな味だった。
数日前、までは。
お腹のたぬきがｷｭｳと鳴くので口にしてみる。
「まずいし…」
以前は気にならなかったエグ味を感じ、反射的に吐き出してしまった。
好きな味が、嫌いになってしまった事にまた涙がこぼれる。

中途半端な親切が、野良たぬきのこれからのたぬ生を変えてしまった。

どうして、あんな目に遭わせたんだし。
飼うなら、責任もって最後まで飼ってし。
訴える相手も、迎え入れてくれる仲間もいないまま、たぬきはションボリを深めてトボトボと何処かへ歩いていった。

その後、このたぬきの元気な姿を見た者は誰もいないという。


オワリ
